驚くのは遺体を動画で映したものがネットで散乱していたりする。明らかに被災者、遺族、亡くなられた方への配慮が欠けてきている。
ボクが最初にボランティアで仙台市に入ったのは11年の5月。某民放ラジオ局でのボランティア募集に応募し(確か選考で作文を書いたかな?)、仙台市の農家で、ビニールハウスや側溝の泥すくいをやった。その時は「被災した方々の気持ちを配慮し、人にカメラを向けないように」とまで言われた。
計4回被災地に入りボランティア活動したが、その他は募金と2回ほどチャリティ活動に参加しただけ。現地入り出来ていない自分に何だか罪悪感のようなものを感じている。しかも、ボランティアに参加している(した)人たちに対して「自己満足だけだ」「目立ちたいだけだ」等の野次りも聞こえてくる。
震災に対しての確実な風化に伴い、小さな事ではあるが、自分がボランティアとして活動してきた事が、果たして被災者のためになってきたのかと疑問に思うようになってしまっていた時、この本のほんの数行を読み助けられた。
徒然草の中での吉田兼好の教えを、現代のシチュエーションに置き換えて紹介している作品だが、その中で、、、
阪神大震災の被災者である著者が、数人の友人と雑談している場面がありでのこと。阪神大震災での芸能人の売名行為とも思われるボランティア活動をどう思うかと問われた場面で、著者は
「・・・・・・もしかしたら、偽善かもね。でもね、あのとき、家を放り出されて避難生活をした人にとっては、偽善かどうかはどうでもいいの。”助けてくれた”という事実だけがたいせつなの」と答えている。
やってよかった。現地でお手伝いさせていただいた農家の方の感謝の涙は本物だったんだと今さらながら思えた。
そして、また今後も続けなければ、と今一度思う。
そして、忘れていたが、3月18日の自分のブログに、こんな言葉もアップしていた。
Most of the important things in the world have been accomplished by people who have kept on trying when there seemed to be no hope at all.
この世で重要な物のほとんどは、全く希望がないように見えてきたときでも、挑戦し続けてきた人々によって成し遂げられてきたきたものだ。デール・カーネギー
すっかり忘れているとは、自分の頭もかなり風化が激しいようだwww
全く関係無いけど、、、写真は先日植木屋さんに剪定していただいた銀杏の木。
デカくなりすぎないようにほどほどの大きさって難しい。
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